「契約魔法使い」(1)
(イラスト・ののみやゆい様)
夢を見ていた。
赤い、夢だった。
最初に目に入ったのは、心配げに見下ろしている娘の黒い瞳だった。
何処かで、見たような気がする・・・。
漠然とした懐かしさが胸を過ぎった。
「あんた、大丈夫かい?」
それが何なのか、捕まえる前に、蓮っ葉な口調で娘が話しかけて来て、彼の思考は中断された。
「あ、ああ、大丈夫・・・だ。」
取りあえず体を起こしてみる。
体にはこれと言って違和感は無いし、痛めている所も無さそうだった。
大丈夫そうだ。
しかし、何が「大丈夫」だったんだっけ?
娘は、名前をエメと名乗った。
黒い、大きな目は気の強さを表して少し釣り上がり気味で、縮れの目立つ豊か過ぎる黒髪は頭頂に結んだ赤いスカーフで何とか押さえつけているが、それでもかなりの量があるのは見て取れた。
身に付けているのは、場末の酒場の女給が着ているような、黒に赤い大きな水玉模様が散っているという、ケバケバしく安っぽいドレスだ。
「ここは・・・?」
辺りを見回して見る。
覚えの無い部屋だった。
と言うか、かなり汚い。
大した家具は無いのに、酷く雑然としているのだ。
染みだらけの板壁も、寝台と椅子とテーブルという最低限の家具しか無い室内の様子も 珍しい物では無いが、歪んだ棚の上と云わず床と云わず散乱している品物は、 ゴミなのか家財道具なのか・・・。
壊れた鍋やボロボロになった絨毯、何が入っているのか分からない大量の麻袋などが 部屋の隅に山積みになっており、今にも崩れ落ちて来そうな壮絶な有様だった。
起き上がろうと足を床に下ろすと、何時から掃除をしていないのか、 足下でジャリッと泥を踏む音がした。
「ここは、あたいの家だよ。
兄さんと一緒にここに運んだんだ、覚えて無いのかい?」
「私が・・・?」
そこまで考えて、異常に気が付いた。
何故ここに居るのか丸きり覚えていないのだ。
それどころか、
「わたしは・・・誰だ?」
「やだ、冗談・・・」
「・・・思い出せない・・・」
「兄さんを呼んで来る!」
慌てたエメが部屋を飛び出して行った後、彼はガラクタの中に古ぼけた手鏡を見つけて、覗き込んだ。
ぼんやりと曇った鏡の中から、真紅の髪を長く伸ばした若い男がこちらを見つめている。
切れ長の目は明るい青で、年齢は二十歳前後、特に醜い訳では無いが美しいとも思えない、どうらこれが自分の顔のようだ。
改めて自分の身なりを検分してみると、旅装束だった。
上着もズボンも厚手の丈夫な物で、紐で締め上げる皮製の長靴を履いている。
寝台の上からずり落ちかけているマントも、自分の物らしかったが・・・。
「駄目だ、何も思い出せない・・・」
手鏡を寝台の上に放り出し、彼は呆然と座り込んだ。
「何っ?!」
エメの兄、ハロルドは、息せき切って走って来た妹の話を聞いて目を剥いた。
「どうしよう・・・兄さん」
「ふん、これは・・俺達にもツキが廻って来たかもしれないぜ」
「?」
ハロルドは下卑た笑い方をして、妹を引き寄せ、耳打ちをした。
不思議そうに話を聞いていたエメの顔にハッとした表情が浮かんだかと思うと 、性質の悪い笑みがそれに取って替わる。
「そっか!兄さん、頭いい!」
「お前の演技に掛かっているからな」
「うん、任せといてよ」
「それでな・・・」
ハロルドは再び、エメの耳元に何事かを囁いた。
「記憶が無くなったんだってな!」
ハロルドは大声で叫ぶと青年に歩み寄り、両肩に手を掛けた。
青年の方は、新たに現れた見知らぬ人物の親しげなリアクションに、目を白黒させている。
「あ、貴方は・・・?」
「そうか、俺の事も忘れちまってるんだっけ。
俺はハロルド、エメの兄貴さ。」
ハロルドは、あまり妹と似ていなかった。
髪は茶色だし、目尻は下がり気味だが鼻は尖っている。
薄い唇には常に軽薄なニヤニヤ笑いが張り付いているし、派手だがだらしない服装はどう見ても、そこらにたむろしているチンピラ風だった。
「仕方無いよ。あたいの事さえ、覚えて無いんだもん」
「そうか!そうだよなー!
二世を誓ったお前を忘れちまうとはな、薄情な奴だぜ!」
妹の言葉に大げさに頭を抱えて見せる。
青年は聞き捨てなら無い言葉を聞いて、狼狽した。
「二、二世?!
「そうともさ。 お前が忘れたって、俺は覚えてるぜー?
妹に手ェ付けといて、忘れましたじゃあ済まないよなあ?
そう、思わないか?」
「・・・・。」
「やだ、兄さん、恥ずかしい・・・」
恥らう仕草をするエメに、青年の顔も一気に赤くなる。
まさかと思うが、否定するだけの確証も無い、何も覚えていないのだから。
「私が・・・エメさんと?」
「水臭いよ、エメって呼んでv」
「エ、エメ・・・?」
「そうよ、サーザ、愛してるv」
抱きついて来るエメを咄嗟に受け止めて、押し付けられた胸の感触にドキドキする。
と、エメの言葉の意味に気が付いて、ハロルドの方を顧みた。
ハロルドが方を竦めて笑って見せる。
「お前の名前だよ、”サーザ”っていうのはな。
これで分かったろう?エメがお前の恋人だってな」
「サーザ・・・」
自分の名前だという実感は無かったが、今の所、その言葉を信じるしかないだろう。
「お前がこの”リクフウ”の町に来たのは三日前だ。」
ハロルドは半信半疑のサーザを椅子に座るように促して、話し始めた。
話しを聞いていて一番驚いたのは、エメの事もだが、自分が普通の人間では無いらしいということだった。
「お前は、旅の魔法使いだ」
「え・・・」
「本当さ、俺は嘘は言わねぇ。」
ハロルドはニヤニヤ笑いながら、虚実入り混じる話しをサーザに話して聞かせた。
「ハルシオン、お前さん、過保護過ぎるんじゃないか?」
港町”リクフウ”から数十キロ離れた丘の頂上。崩れた廃墟の壁に腰掛け、休息を取っていた魔法師シッサスは、少し離れた場所に立って 海の方向を見詰めている同僚のハルシオンに声を掛けた。
シッサスは少し茶がかった長い黒髪と、鋭いオレンジの瞳を持った青年で、暗い色のマントを纏い、肩には樫の木で作られた大きな杖を立て掛けている。
振り向いて同僚を見たハルシオンと呼ばれた青年もシッサスと同じような出で立ちだったが、白を基調とした色彩を身に纏っており、白絹のような髪と美女と見紛うばかりの美貌が、 魔法師としては野性味溢れる人となりのシッサスとは正反対のタイプだった。
「あれとの連絡が途切れてから、四日が経過している。
何かあったに違いないのだ」
「心配性だな。
サーザとて、もう二十歳だろうに」
「まだ、二十歳だ。
それにあれが国を出たのは、今回が初めての事。
契約先のエライアに着くまでは、日に一度の定期連絡をするようにきつく、言い聞かせた。
約束を違えるなど、ある筈が無い」
青い宝石のような目で、ハルシオンはシッサスを睨み付けた。
「嫌なら、付いて来なくても良いのだぞ。
私、一人で行く。」
「お供しますとも!
だから機嫌を直してくれよ。
お前さんに睨まれるのも、悪かぁないが」
立ち上がって歩み寄ってくる長身に、美貌の青年は嫌そうに顔をそむけた。
「いい歳をした男に言う科白か」
「まぁ、そこは永遠の青年って事で!」
「私は、分別の無い相棒は要らん。」
「まぁ、まぁ、さっ、急ごうぜ!」
シッサスはこれ以上、相棒を怒らせても不味いと考えて、ハルシオンを急き立てて砦跡を出発した。
この美しい相棒が本気で怒ると、手が付けられなくなるのを長い付き合いで熟知していたが、怒っている顔がまた一層美しいので後で自分が困ると分かっていて、つい、つついてしまうのだ。
シッサスの悪い癖だった。
<続く>