契約魔法使い(4)
早朝、狭苦しい寝台の上で、サーザは目を覚ました。
隣にはハロルドがまだ、高いびきを立てて眠っている。
そっと起き出して、明けかける町を窓越しに眺めた。
何か、を感じたのだが、それが何なのかが分からない。
呼ばれている気がするのに、声も姿も分からない。
誰が呼んでいるのかも・・・。
朝の、静まり透き通った空気の中には、沢山の音が満ちているようだった。
微かな振動が肌に伝わって来る。音など、何も聞こえてはいないのに。
「何だろう、これは・・・」
不思議な気持ちに打たれて、サーザは窓辺に立ち尽くした。
夜明けの空気の中には多くの精霊が活発に動き回っていて、窓に立つ魔法師に次々に声を
掛けて来ているのだが、記憶を失ったサーザは、その声に気付く事は無かった。
遅い朝食を摂った後、ハロルドが突然、「北の谷に行って見ないか?」と、言い出した。
隣に座っていたエメの肩が、ビクリと竦み上がる。
「北の谷?」
「お前が記憶を失った場所さ。行けば、何か思い出すかもしれないじゃないか?」
「確か、その谷には魔獣が居るという話ではなかったか?」
「魔獣も、昼間は寝てるさ!
何にしろ、あそこにしか手掛かりは無いんだ。行くしかねぇだろう。」
「そうだが・・・」
サーザは、少し考え込んだ。
北の谷で魔獣に遭遇して記憶を失う事になったのだから、確かにその場に行けば何かを思い
出すかもしれない。
「・・・行ってみるか」
「おう、俺も一緒に行ってやるよ。その前に、財布は置いて行きな。
無くしたりしたら、大変だろ?エメに預ければいい」
「ああ、そうするよ。」
何の疑いも持たずにサーザは黄金の詰まった財布を懐から取り出すと、エメに手渡した。
「さあ、行こうぜ!」
ハロルドは易々と黄金が手に入った事に上機嫌で、サーザを急き立てながら、
出て行き際、エメに方目を閉じて見せる。
二人が部屋を出て行くのを、エメは黙って見送っていた。
北の谷は、暗い裂け目のようだった。
ハロルドとサーザは斜面を降りて、草一本生えていない谷底に立つ。
町から一歩離れると、今だ魔獣や妖魔の類が我が物顔に徘徊しているこの国で、こんな荒地の谷に昼間といえ、近付く物好きは居ないのだが、それにしても谷の静けさは尋常ではなかった。
何処にでも聞こえている筈の鳥の声も、虫の声も聞こえない。
自分達の歩く足音が響く他、聞こえて来るのは谷を渡る風の、すすり泣きに似た音だけだ。
「薄気味悪いな・・・」
自分から行こうと言い出したくせに、
ハロルドの声は震えている。
この谷に棲む"魔獣プサイシン”の事は知っていたけれど、ハロルドはここでそれに遭遇した事は無かった。三日前、エメに懇願されてサーザを助けに降りた時以外、谷に近付こうなどと思った事も無かったのだ。
しばらく歩くと、足元が小石混じりの音を立てるようになった。
見ると、地面のあちこちにキラキラ光る物が顔を出している。
「何だ?宝石か?」
ハロルドは座り込んで、落ちている物を摘み上げた。
僅かな光を反射して輝くそれは何かの宝石には違いないようだったが、宝石に詳しくない彼に判断する術は無い。
何個か、目に付いた物をポケットに詰め込んで、黙って谷を見回しているサーザを見遣った。
「どうだ、何か思い出せそうか?」
「いや、皆目・・・。」
赤毛の魔法師は落胆していた。
切り立った岩肌に掌を当て、考えてみても、ここに来たという気がどうしてもしないのだ。
「お前が倒れていたのは、この先だ」
ハロルドの指し示す方を見た時、サーザは背後から近付いて来る気配に気が付いた。
「誰かに、尾けられている・・・」
「な、何っ!プサイシンが出たかっ?!」
「いや、これは・・・」
飛び上がって驚く相手に少し待っているように言い置いて、サーザは来た道を取って返した。
置き去りにされるのを恐れたハロルドが慌てて後に続く。
何メートルか戻った所で、岩陰から飛び出して来た物があって、ハロルドは悲鳴を上げた。
「うわわっ、出たっ!」
「違う、エメ・・・?」
「な、なな何っ」
サーザの言葉に驚いて、ハロルドは咄嗟に隠れていた魔法師のマントの影から、顔を出した。
見れば、家に残してきた筈の妹が、地面にへたり込むようにして、二人を見上げている。
「何しに来た!危険だって、言ったろう!」
「あたい・・・心配で・・・」
「〜〜〜っ」
ハロルドは、頭を抱えた。
「とにかく立って」と、サーザが手を差し出し、エメを立ち上がらせる。
「ハロルドの言う通りだ、もう帰ろう。」
「・・・仕方無ぇな。」
ハロルドは、溜息を付いた。
プサイシンとサーザを対決させようと思っていたが、エメが付いて来たのでは、そんな危険は犯せない。
魔獣が出る前に、谷を出た方が良策だった。
帰ろうと言いかけた時、何かがチラリと視界の端で動いたのに気が付いた。
不思議に思って、その方向に目を向ける。
そして、そのまま凍り付いた。
「サーザ・・・!」
押し殺した声が切羽詰って、サーザの注意を引き付けた。
素早く振り返り、同時にエメを背後に庇うようにする。
i何時の間にか、足元から這い上がるような霧が立ち込めていて、その向こう、あまり遠く無い位置に何かの影があったーーー。
それは一見、岩の塊のように見えたが、影の中には知性を宿した赤く光る二つの目が有り、侵入者である三人の姿をじっと観察しているのだった。
「魔獣、プサイシン・・・か」
サーザは、手元を探って何かを探している自分に気が付いた。
こんな場面で、どうしても必要な物が無いのだ。
もちろん、それが何なのかは、思い出せなかったのだが・・・。
<魔法師よ。>
聞き覚えの無い声が、耳朶を打った。
魔獣が話し掛けて来たのだと、サーザは直感した。
霧の中から姿を現した”魔獣プサイシン”の体長は、牛の二倍ほど。
体形は獅子、顔は鰐に似て、体色はくすんだ薄い紅色をしている。
尾の先端と額部分から首筋に沿って、馬のタテガミのような体毛が生えている以外、体を覆っているのは細かい鱗状の皮膚だ。
発達した肩の筋肉が小山のように盛り上がって、太く長さのある首を支えており、足先に有る爪は大型肉食獣のそれで、一撃で獲物を死に至らしめるだけの威力を持っていそうだった。
<一度、見逃してやったにも関わらず、再び愚かなる人間と共に谷を荒らそうとは、魔法師の風上にも置けぬ奴。>
プサイシンは鋭い牙の並ぶ口を開いて、白い息を吐いた。
瘠せた土地に弱々しく根付いていた雑草が、それを浴びて見る見る萎れて行く。
「毒のブレス(息)だ・・・!」
背後で、ハロルドがエメを庇いながら、後ずさった。
あんな物を身に浴びたら、人の身の自分達は、
一溜まりも無い。
<我が谷の石が、それほど欲しいか>
「石・・・?」
サーザが聞き返すと、プサイシンは、牙を剥き出して嘲笑った。
<我が谷は稀なる”金剛石の谷”、いにしえより欲深き人間の侵入は後を絶たぬ。
それも、ここ数年は途絶えておったが、人は恐れさえ長く記憶に留めて置けぬらしい。
そこの小娘は、禁忌を犯したのだ。>
「エメが?」
<人間を庇い、我に刃向かうからには、相当の応報を覚悟しておろうな。>
「無断で侵入した事は謝る。
私は唯、失った自らの記憶を探しに来ただけだ。貴方の棲家を荒らすつもりなど無かった。」
<ほう、記憶を失ったか。
赤き魔法師よ、貴様は最も大切な物を一つだけ奪われる呪いを、我から受けたのだ。
命有るを僥倖と、思うが良い!>
プサイシンの巨体が、重さを感じさせぬ動きで跳躍した。
咄嗟に飛び退き、ハロルドに叫ぶ。
「逃げろ!」
言われるまでも無く、ハロルドは妹を引き摺ってその場から離れようとしたが、エメは手を振り解いて戻ろうとする。
「サーザ!」
「バカ、エメ!」
「来るなっ!」
次の瞬間、プサイシンの口から、毒のブレスが三人に向かって吐き出された。
成す術無しかと、サーザは目を閉じた。
二人だけでも逃がしたかったが、おそらく彼らも毒から逃れる事は出来まい。
死を覚悟した時、後から一陣の風が吹いて、ブレスを押し戻した。
三人の体に届く事無く、毒が霧散する。
<何っ?!>
驚愕するプサイシンとサーザの間に、黒い影が降り立った。
茶がかった長い黒髪に黒装束。樫の杖を持った、オレンジの鋭い目をした男だった。
「北の谷の主殿、御無礼を容赦願いたい。
俺は”風のシッサス”、”アーリイルの山”から来た魔法師だ。」
<邪魔をするか!>
プサイシンは猛り狂って、今一度、毒のブレスをシッサスに向かって吹き掛けた。
「風っ・・・!」
シッサスが手を上げると、再び風が吹き抜けて、毒のブレスを散らした。
空気の動きが殆んど無かった谷底を、ゴウゴウと音を立てて、風が走り抜けて行く。
向風を受けてブレスを封じられたプサイシンは、歯噛みして、シッサスを睨み付けた。
<こうなれば、この牙でその首、引き千切ってくれようぞ!>
飛び掛ろうと身構えた時、プサイシンの周りを吹いていた風が急に渦を巻いたかと思うと、彼を中心にして、爆発に近い炎が轟音と共に吹き上がった。
<うおおっ!!>
プサイシンは、驚きのあまり立ち竦んだ。
不思議と炎はプサイシンの体を焼く事は無く、ただ周りを壁のように囲んでいるだけであった。
それでも火勢は凄まじく、タテガミがチリチリと音を立てる。
<やめろ!金剛石が、燃えてしまう!>
プサイシンは、叫んだ。急激に戦意が失せて行く。
風霊と共に火精まで操る相手など、勝てる筈が無い。
「申し訳ありません。」
柔らかな声と共に、もう一人の人物が黒衣の魔法師の隣に現れた。
白絹のような髪と、鮮やかな青い目を持った美しい人物は一見、女性のように見えた。
しかし、白いマントに杖を持つ姿は、紛れも無く魔法師の出で立ちである。
女の魔法師が人前に現れる事は、皆無に等しいとされている。
つまり”契約魔法使い”は、全てが男性だという事だ。
彼は元、”契約魔法師”、紛れも無く男性であった。
「私の名は”火のハルシオン”、あれは私の血に連なる者。
未熟故に犯した過ちを、代わって謝罪いたします。
御許し下さい。」
ハルシオンは丁寧に魔獣に話し掛け、礼を取った。
たちまち何事も無かったように炎が掻き消えて、谷は静けさを取り戻す。
プサイシンは、あの劫火を呼び出したのが、このたおやかな外見をした魔法師だと知って瞠目した。
<・・・彼奴は、我の棲家に人間を引き込んだ!>
「あれはまだ、幼いのです。初めて巣の外に顔を出した雛のようなもの。まだ、魔法師たる自覚も十分に育ってはおりません。
子供のした事と思って、寛容を持って接しては頂けぬでしょうか?」
<う・・・>
プサイシンは、口籠った。
あくまでも下手に出ている姿勢は崩さないが、力では既にプサイシンを圧倒している。
嘆願というより、脅迫されているような気にさえなっていた。
<・・・分かった。子供の仕業なら許そう。
我とて、そこまで狭量では無い。>
「有難うございます。」
ハルシオンはにこやかに笑って、呆然としているサーザを顧みた。
「お前からも、改めて御詫びを申し上げるのだ、サーザ。」
「は、はいっ、申し訳ありませんでした!」
思わず素直に謝ってしまったが、自分が何をして謝る事になったのか、サーザには今だ思い出せずにいた。
「これで、呪いを解いて頂けますか?」
ハルシオンの言葉に、プサイシンは仕方無く頷いた。顎で谷の奥を指し示す。
<この先の岩陰に、彼奴の杖と共に隠された玉が有る。
それを砕くが良い。奪われた物は戻るだろう。
見つけたら速く、立ち去るのだな!>
プサイシンはもうこれ以上、魔法師に関わる心算は無かった。
金剛石に囲まれた、静かな暮らしに再び戻りたいだけだ。
「感謝致します、谷の主殿。」
プサイシンが霧の奥に去って行くのを見送った後、ハルシオンは隣のシッサスを見上げた。
「そういう訳で、サーザの杖と玉を見つけてくれ。」
「ちぇっ、良い所取りかよ。ズルイぞ!」
ぶつぶつ言いながらもシッサスが風霊達を呼び集めようとした時、うろたえたハロルドの声がして、魔法師達は一斉に振り向いた。
ハロルドに取って、サーザの仲間の出現は計算外の出来事だった。
サーザ一人なら騙すのは容易いが、仲間が共に居るのでは嘘を付き続けるのは不可能だ。
何処かで成り行きを見ているだろう手配屋に対しても、サーザが魔法使いであるとは証明出来たろうが、売り渡す約束は反古にするしか無かった。
何よりも目の前で繰り広げられる魔獣と、魔法師の対決を見ては、金を儲けるどころか企みが発覚すれば即、身の破滅だった。
人の身で、どうこう出来るような存在では無いと初めて認識したのだ。
サーザがあまりに純朴なので、あんなに恐ろしいものだと思いもしなかった。
更に、魔法師達が魔獣プサイシンから記憶を取り戻す方法を聞きだしたのを見て、いよいよ身の危険を感じた。
逃げるしか無い!
幸い、魔法師達は自分達に対して全く注意を向けていなかったから、逃げるのなら今の内だった。
「エメ、逃げるぞ!」
小声で後に居た妹を急き立てようとして、ハロルドはエメの姿が無い事に気が付いた。
「何処だ?エメ!」
慌てて辺りを見回したが、エメの姿は忽然と消えていた。
あの騒ぎの中、一人で何処かへ行くとは思えない。何かが、妹の身に起こったのだ。
「エメが、居ないのか?!」
サーザが、ハロルドの叫び声に驚いて、振り返った。
見れば確かに、エメの姿が無い。
「シッサス!」
「おうよっ!風霊、娘を探せ!」
ハルシオンに促されて、シッサスは集めていた風霊達をエメの探索に飛ばした。
空気が大きく動く気配がして、見えない何かが四方八方に飛び去って行く。
黒衣の魔法師は杖を片手に、両手を広げる姿で岩の上に立った。
オレンジの目を閉じて、じっと立ち尽くす。
強く集中している様子に、焦れていたハロルドも口を噤み、息を殺してそれを見守っている。
やがてシッサスの髪が、重力に逆らうように立ち上がり始めた。
長く伸ばされた髪が両側に開かれて、まるで頭部に黒い二枚の羽が出現したようだった。
魔法師達が集中して精霊を動かしている時、彼らの長い髪はアンテナの役目をしている。
彼らの頭部に翼が現れた時。これが、”魔法を使っている”という状態なのだ。
眉を寄せながら、シッサスは口を開いた。
「居たぞ、仮面の男に連れられて・・・何処かへ向かっている。」
「ヘザーの仕業かっ!畜生、どうやっても約束を守らせる心算だなっ!」
思わず叫んだハロルドの言葉に、サーザが歩み寄った。
「知っている奴なのか?」
「・・・うっ」
慌てて口を両手で塞ぐが、飛び出した言葉はもう、取り消す事が出来ない。
「・・・”約束”とは、何の事ですか?」
白衣の魔法師の、心なしか冷たい声が追い討ちを掛けた。
びくりとして恐る恐る振り向くと、男と思えぬほど美しい顔が笑っていた。
それだけに、余計恐ろしい。青い瞳は、氷河のごとき冷たさである。
「済みません・・・っ!」
思わず土下座して、魔法師達の前に額を擦り付けた。
<続く>